2012年8月9日木曜日

『 クリスチャンの正しい回心のための聖書義解4 』



4.『聖書』 における「平和」の意味

(1)真のクリスチャンを通じた、悪魔サタンが支配する「この世」に対する完全勝利

『聖書』における「平和」の意味は、世俗社会での意味と全く異なっている。世俗社会での意味は、『戦争がなく、世が安穏(あんおん)であること』 だが、『聖書』 の「平和」とは、世俗社会が言うところの低次元な「平和」を乗り越えた境地にある。 即ち、『神と人との敵対関係の和解、霊と肉との対立関係の解消、善と悪との相克を絶した絶対善が人の心を占める境地、神の御国の平安な秩序、悪魔サタンに対する勝利、御再臨のキリストによる統治』 を指す。 そして、神の御国が、千年王国という形で、この地上に預言どおりに実現する迄の間、真のクリスチャンにとっての「平和」とは、『外交的・政治的・社会的・人間関係上の実際の平和』という意味ではなく、あくまで、『神に自己を全託した心の平安』 という意味である。 さて、『あなた方は、自分に関する限り、全ての人と平和を保ちなさい。』(ローマ12:18)という聖句をもって、『悪魔という敵との闘いを止めて、悪魔と友好平和な関係を築きなさい』 と宣伝している自称クリスチャンがいる。しかし、この「ローマ書」は、パウロが当時の世界の中心地であったローマにある教会へ宛てた手紙で、ローマ書第12章以降は、『あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖(きよ)い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』(ローマ12:1)と書いてあるごとく、『世俗社会における自分の置かれた状況がどうであれ、悪魔に心を混乱させられることなく、神への霊的な礼拝をおこなうために、自分の心を神の御国の平安に置き、善をもって悪に打ち勝ちなさい。』 という意味だ。 パウロ自身は、世俗社会において、悪魔と格闘し、反キリストのユダヤ人たちに命を狙われ、逮捕され、裁判にかけられ、投獄されているが、パウロの心は、「平和」、即ち、神の御国の平安を保っていた。 従って、ローマ12:18「平和」とは、『悪魔である敵との闘いを止めて、悪魔と友好平和な関係を築きなさい』という意味ではない。 神の御国が、この地上における千年王国として具現化するまでの間の「平和」とは、あくまでも、「正しい信仰に基づく心の平安」という意味しかない。 なぜなら、『平和の神(主イエス・キリスト)は、すみやかに、あなたがた(真のクリスチャンたち)の足でサタンを踏み砕いてくださいます。』(ローマ16:20)と書いてあるごとく、主イエス・キリストが、真のクリスチャンを通じて悪魔サタンを踏み砕き、悪魔サタンの支配する「この世」に勝利するからだ。  つまり、真のクリスチャンは、「平和の神」(主イエス・キリスト)の御名の下に、自己の心を「平和」に保ちつつ、悪魔サタンという真の敵に立ち向かい、悪魔サタンを踏み砕かねばならない。 そして、真のクリスチャンが悪魔サタンが支配する「この世」に完全勝利を果たすまで、この地上における外交的・政治的・社会的・人間関係上の実際の「平和」はありえない。 以下は、「平和」に関する、その他の聖句である。

イザヤ9:6
『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。 主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』

マタイ 5:9
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

マタイ 10:34- 39
『わたし(主イエス・キリスト)が来たのは地に(世俗社会で言う)平和をもたらすためだと思ってはなりません。 わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣(悪魔と闘う勇気の御言葉)をもたらすために来たのです。  なぜなら、わたしは人(この世を愛する人、世俗社会の権威に従う人)をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。 さらに、家族の者がその人の敵となります。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者(真のクリスチャン)ではありません。 また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 自分の十字架(自己犠牲の覚悟)を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い(霊的に死に)、わたしのために自分のいのちを失った者(主イエス・キリストのために自己犠牲を果たした殉教者)は、それを自分のものとします(永遠の生命を得ます)。 』

ルカ 12:49
『わたし(主イエス・キリスト)が来たのは、地(地上の人間世界)に火(聖霊の働きに基づく悪魔との戦火)を投げ込むためです。 だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。 しかし、わたしには受けるバプテスマ(十字架に磔にされての人類のための贖罪死)があります。 それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。  あなたがた(ペテロら弟子たち)は、地に(世俗社会で言う)平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。 そうではありません。 あなたがたに言いますが、むしろ、分裂(聖霊と悪霊、善と悪という両陣営に分裂して争う人間社会)です。 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」 』

ヨハネ 14:27
『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたに平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

ローマ 12:16- 21
『互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。 自分こそ知者だなどと思ってはいけません。 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。 あなたがたは、自分(の信仰と行ない)に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい(すべての人間関係において、神の御国の平安を心に抱き、悪魔によって心を混乱させられることなく、善をもって悪に打ち勝ちなさい)。 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。 それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」  もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。 渇いたなら、飲ませなさい。 そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 悪に負けてはいけません。 かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。』

ローマ 16:17- 20
『兄弟たち。私(パウロ)はあなたがた(ローマにいる真のクリスチャンたち)に願います。 あなたがたの学んだ教えにそむいて、(真のクリスチャンたちの間に)分裂とつまずきを引き起こす人たち(悪魔の子ら)を警戒してください。 彼らから遠ざかりなさい。 そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。 彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。  あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。 しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。  平和の神(主イエス・キリスト)は、すみやかに、あなたがた(真のクリスチャンたち)の足でサタンを踏み砕いてくださいます。 どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。』

エペソ 2:14- 16
『キリストこそ私たちの平和であり、二つのもの(神と人、霊と肉)を一つにし、隔ての壁を打ちこわし、 ご自分の肉(十字架に磔にされた主イエス・キリストの肉体から流れた御血=自己犠牲による贖罪死)において、敵意(神と人との敵対関係)を廃棄された方です。 敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。 このことは、二つのもの(神と人、霊と肉)をご自身(主イエス・キリスト)において新しいひとりの人(主イエス・キリストを頭とする教会、永遠の命を持つ聖霊の宮としての肉体)に造り上げて、平和(神と人との和解)を実現するためであり、 また、両者(神と人)を一つのからだ(霊的な一体化=婚姻)として、十字架によって神と(人とを)和解させるためなのです。 敵意は十字架によって葬り去られました。』

コロサイ 1:20
『その(主イエス・キリストの)十字架の血によって平和をつくり、御子(人となって来た主イエス・キリスト)によって万物を、ご自分(父なる神ヤハウェ=子なる主イエス=主イエスの御霊である聖霊)と和解させてくださったからです。 地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』

ヤコブ 4:1- 4
『何が原因で、あなたがた(悪魔に憑かれた人々)の間に戦い争いがあるのでしょう。 あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。 うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。 あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 貞操のない人たち(神の御子イエス・キリストの側につくか、悪魔サタンの側につくかを決めかねて、心が揺れている人たち)。 世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。 世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。』



(2)信仰の妨げになる「つまずき」を徹底的に排除する


A.主イエス・キリストは、真のクリスチャンに最も高い倫理・道徳の実践を求められる

マタイ 5:39
『・・・悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。』

マタイ 5:44
『・・・自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。』

マタイ 5:48
『・・・あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』

マタイ10:26-28
『だから、彼ら(ローマ帝国の属州ユダヤ総督・属州ユダヤの王・ユダヤ教の祭司長たち)を恐れてはいけません。覆われているもので知られずに済むものはありません。わたし(イエス)が暗闇であなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳元で聞くことを屋上で言い広めなさい。からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいも、からだも、ともにゲヘナ(地獄)で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』


B.主イエス・キリストは、真のクリスチャンに、信仰の妨げになる「つまずき」の徹底的排除を求められる・・・主イエス・キリストは、真のクリスチャンに対して、人として最も高い倫理・道徳の実践を要求された。また同時に、真のクリスチャンの信仰の妨げになる「つまずき」を徹底的に排除すべきことをも要求された。例えば、「つまずき」の徹底的な排除に関する主イエス・キリストの御言葉は、「マタイ」「マルコ」において次のように書いてある。主イエスが実際に肉声で弟子たちに語った真正の御言葉である。なお、下記の聖句にある「目」とは、人の五感を通じて入って来る悪魔的な社会環境の情報=刺激に汚染された「思考」で、「手足」とは、人の「行為」の比喩である。同時に、人の「肉体の器官」そのものを指す。

マタイ 5:29-30
『もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手が、あなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりは、よいからです。』

マタイ13:49-50
『この世の終わりにも、その(あらゆる種類の魚を集める地引網の)ようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。』

マタイ18:7-9
『つまずきを与える、この世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしい者です。もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいる方が、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、よいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいる方が、両目そろっていて燃えるゲヘナ(地獄)に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。』

マタイ25:46
『こうして(生前または死後に主イエスに裁かれて)、この人たち(愛の無い自称クリスチャン)は永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。』

マルコ 9:42-48
『わたし(主イエス)を信じる、この小さい者たちの一人にでも、つまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて海に投げ込まれた方がましです。もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいる方が、両手そろっていてゲヘナ(地獄)の消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいる方が、両目そろっていてゲヘナ(地獄)に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食うウジは、尽きることがなく、火は消えることがありません。』



公開2012(平成24)年8月9日(木)02:10
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